昭和56年2月13日 朝の御理解                     中村良一

御理解 第88節
「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」

御理解 第89節
「此方の道は傘一本で開くことができる。」



昨日、先だって、講師で見えました。あの、瀬戸先生から、お礼の手紙がきとります。それから、昨日、佐田恵介君が、いま、あの、教会に修行に行っとります。修行先から、手紙がきとりますから、ちょっと聞いてください。
(代読)瀬戸幹夫先生からです。「拝啓、先生には、日夜、ひと筋のご神務、神様には、ひとえに、  お喜びのことと存じ上げます。さて、このたびは、御神縁により、お引き寄せ蒙り、親しくお見通しする事ができましたこと、真に、有難いことに存じております。教祖様は、このようなお方に、だったろうなぁと、始終、思わせていただいておりました。その節は、お心尽くしのおもてなしに預かり、沢山に頂戴して帰り、わざわざ、皆様、多数、お見送りいただきまして、何とも、お礼の申しようがございません。われながら、まずい話でございましたが、皆様方の受け物がよろしいので、助けていただきました。教祖様のご信心を、明らかにさせて頂くことが、私の使命であるように思わせられつつありますが、そうするについて、先生のご信心を頂いてゆきたい。また、そうして、教祖様のご信心が、明らかになることが、合楽の皆様が、親先生を頂いていかれる力とも、助けともなるようでありたいと、心ひそかに願わせられました。御神縁のままに、折に触れ、御教会に、参拝のお陰を蒙らせていただきたく念じております。今後とも、なにとぞよろしくお願い申し上げます。時節柄、いっそう、ご自愛承りますよう祈り申し上げます。末筆ながら、親奥様、若先生をはじめ、諸先生方、信者の皆様方に、よろしく(ごふえんさい?)下さいますよう、先ずは右、お礼かたがた、お願いまで申し上げます。敬具。昭和五十六年二月九日  瀬戸幹夫  大坪総一郎先生。」
(代読)「親先生、日々、お取次ぎ有難うございます。親先生のお祈り添えのなか、在籍外教会、立志をさせていただいております。私が来らせて頂いておる教会は、大阪の門真教会です。門真教会です。ここの教会は、朝の御祈念が、八持三十分からですので、七時三十分頃、起きればよいので、朝起きの苦手な自分でも、何とか勤められます。朝、七時三十分頃、広前に行き、教会内外の清掃。それは、信者の方も、一緒にさせられますので、八時ごろには終わります。それから、朝食ですが、先生方は、朝食を頂きませんので、自分一人で食べさせていただきます。八時三十分より、御祈念。それが終わると、前の夜に、信者の人が話した体験談を、テ-プにとっているのを聞き、その話、一つ一つについて、先生が、御理解をなさります。それから、信者の方のお届けがありますが、門真教会のお届けは、少し違っていて、先ず、先生にお届けされた信者の方が、御結界の下方向にある机に、もう一回、お届けをなさいます。そこで、お届けの内容を、御祈念帳に書き、それを見て、後から先生が、ご神前で御祈念をあれます。それを書くのを、自分がさせて頂いておりますが、信者の方のお届けの丁寧なことに驚きました。自分のこと、先生方の事、一日の出来事、ほかの信者さんの事、教会の事、教会周辺の未信奉者の方の事など、書き上げていけば、限りがありませんが、そういう事、一つ一つお届けされていきます。それで、自分は一度、ノートにお届けを書き、それを御祈念帳に書きますが、信者の方が、早口なので、少々戸惑ってしまいます。家族で参ってきていても、一人ひとりでお届けに来ます。二歳、三歳の子供も、一人できて、片言の言葉で、お届けをしていきます。それを、御祈念帳に書き終わりますのが、十一時過ぎで、十一時半より、昼食です。このときは、先生方と一緒に頂きます。一時四十五分頃、広前に行き、二時より昼の御祈念。それが終わると、朝聞いたテープを聞き、先生の御理解。それからまた、信者の方のお届けを受け、御祈念帳に書き終わるのが六時半で、この頃から七時半頃まで、お参りが殆どありませんが、それまでは、一人、二人と、たまに参ってきますので、書き終わると直ぐ食事になります。それから、七時半頃より、また、お広前に行き、八時より御祈念。その後、信者の方、二三人が、体験発表などの話をされ、それについて、先生が御理解をされます。その話、一つ一つについて、先生が御理解をされます。その信者の話は、テープにとり、次の日の朝、昼の御祈念のとき、信者の方に聞かせ、先生が御理解をされます。信者のうちのお届けが終わるのが、十時ごろで、御祈念帳に書き終わりますのが、十一時を過ぎてしまいます。一日、八時間から、九時間ほど、広前に座らせていただき、信者の方のお届けを受けたり、御祈念をさせていただいております。昨日と今日は、先生が、外出されたので、十一時間ほど、お広前に座りっぱなしでした。今日は、昼の御祈念の先唱をさせていただきました。信者の方が、何時もより少なく、始めは三人でした。そのような中で、御祈念を上げさせていただいていると、末永先生のとことを思い出し、末永先生、ビリグイ布教当初は、このような感じではなかったろうかと思うと、感動させていただきました。一日、座っていると、足が痛くて、仕様がありませんが、そんな時、親先生が、椛目時代に、一日中座り通して、信者の方の取次ぎをされていたことを思い出しながら、自分も今、その事の、真似事のようなことをさせていただいていると思いましたら、足の痛みが有難く、痛みを感じるのが、有難くなってきました。神様の、親先生の祈りの中での、実証をさせて頂いておるのだと実感させていただいております。あと、十一日、門真教会で修行させていただくわけですが、残りの日も、無事に過ごさせていただきますようお願い申し上げます。乱筆乱文お許しください。合掌、佐田恵介。 二月八日 親先生。」
御道の教師を志していただく、いうなら、御道の教師の卵とも思われるような、今、恵介君の、んー、手紙を、皆さん、お聞きになって、ね。あそこまで行くまでに、あれだけのお育てを頂いておることに、ちょっと、驚きを感じます。まぁ、本当に、まぁ高校を出たばっかりの、まだ、本当に子供のように思うけれども、もう、マルショウ時代からの、信心の稽古が出来ておったことを、やっぱ、思わずにはおられません。えー、瀬戸先生の手紙を聞いていただいたのは、いうなら、その先生の、まぁ、教学者としては最高峰の、まぁ、先生のお手紙を聞いていただきました。いうならば、ある意味での、先生の修行をなされ終わった先生。そして、教団の、おー、ま、屈指の教学者として、えー、教学研究所の所長の御用を勤めておられる先生。これから、御道の教師にならせて頂こうと精進しておる、いうなら、卵の先生の手紙。ね。今日、皆さんに、この方の道は、傘一本で開ける道。もう、いと簡単に、教えておられます。それを、ほんなら、信心の究極のところは、ね。やはり、安心立命にあるのです。ね。どのような場合であっても、ね。安心しておれれる。どのような場合であっても、神愛としてお礼が言えれる信心。それに、八十八節のね。えー、いわゆる、この御理解は、んー、嫁入りをする時に、親が鏡を持たせてやるのはという、あの御理解なんですかれども、これは、私は、究極のところを、いわゆる、黙って治めるという事。家庭の中に、どういう事が起こっても、人に悪い顔を見せんで済むような、おかげを頂くという事。ね。いわゆる、どのような場合であっても、ね。黙って治められれる内容。ね。いうならば、成り行きとして、または、神愛として頂けていけれる信心。そういう信心を目指させて頂いて、ね。初めて、なるほど一切が黙っておって良かった、黙って治まるという事の、素晴らしい体験が積んだ上にも積み上げられて、そして、一切が有難いものになってくる。そこから生まれてくる安心、ね。だから、それだけなんです。けれども、ほんなら、いよいよ手を取って教えてもらうというか、教えに基づいて、日々、信心の実験実証をするというか、そういう一つの、過程というものが、踏まえられて、初めて、傘一本。いうならば、安心のおかげが頂けるのです。傘一本で開ける道という事は、傘、そのものを、ね。安心の土台として、何時もここでは説きます、ね。どんなにもう、今にも降りそうになりましても、傘の用意があれば、慌てることは要らないでしょう。傘を持たないから、慌てねばならぬ。または、濡れなければならぬ。ね。一本の傘があれば、ね。慌てんで済むだけではない。濡れんですむおかげ。どんな場合であっても、ね。そういう尊いものを頂かせていただくという事がね。えー、瀬戸先生のお手紙の中に、まぁ、一番書き出しから、初めて聞かせていただくような、えー、普通の、まぁ、一般の先生方の、教会長に対する。もう、日々、ご神勤有難うございますというような言葉でございますけれども、先生が、日々、ご奉仕をなさっておられるという事が、いかに神様がお喜びなさることでしょうかという事が、一番に書いてありましたね。例えば、ほんなら、ご神勤というて、その、神努め、ほんなら、奉仕をしておっても、果たしてそれが、神様が喜んで下さる奉仕かどうか分からない。幾ら、いわば、ご神勤、御結界を守っておられても、人が助からなかったら、神様の喜びにはない。もう、そのところを、合楽の場合は、親先生が、ご神勤しておられるという事によって、沢山の人が助かるという事が、いかに、神様のお喜びであるかという事を言うておられるんだと思うんです。
こちらへ見えられてから、帰られるまで、終始、教祖の神様という方は、こういう方であったであろうかと、頂き続けたという事が書いてありましたね。ね。ですから、ほんなら、瀬戸先生にしてです、もう、いうなら、御道の教師としては、最高権威の先生がです、ね。教祖の信心をつまびらかにすると言う、教学的な、あー、事だけではなくて、実際に助かる、教祖様のご信心によって、実際に助かるという事には、どういうあり方にならなければならないか。ね。結局、合楽の生き方。合楽のような生き方にならなければ、ね。いかに教祖様のご信心を、つまびらかにしただけでは、人は助からん。それが、自分の使命であるようにも思うておったが、合楽に見えて、助かるという事の重大性という事を感じておられる。これからは、ね。えー、ご縁がまた、これからまた、合楽に、あのお引き寄せを頂きたいといったような意味の事も書いてあったですね。これから、合楽の勉強をする事によって、教祖の神様の、おー、あられ方と言うか、つまびらかになさるという事の内容に、仲介はせぬという事。それに、助かりが伴うことのためには、合楽の信心によらなければという意味のものを、私は感じたんですけれども、ね。だから、本当に、合楽の信心は、まぁ、いうならば、簡単です、明瞭です、そして、おかげが確かです。まぁ、合楽の教会のキャッチフレーズのような言葉でございますけれども、ね。確かに簡単です、ね。もう、黙って治めさえすりゃ良か。そして、その黙って治めておれば、その次にはもう、実証が生まれてくるのですから。それが、ぎこちないところから、段々垢抜けをして、その、何故黙って治めなければならないか、ね。もう、そのものが、ずばり、神愛と頂けれてくるとき、初めて、一切が神愛と分かる時に、生まれてくるのが、どんな場合であっても、心に安心。一本の傘が与えられた時である。その信心を、いよいよ、これまた、限りがないけれども、確かなものにして行こうという事です。ね。けれども、やっぱりですね。いわゆる、今の、恵介君のお手紙から、あー、瀬戸先生の手紙をですね。その間の事を、皆さん、思うてみてください。皆さんは、その間の事は、只今、稽古中なんです。ね。だから、ここには、信心の稽古に来ることろ。そういう稽古が、実際に、ただ、参っておれば稽古が出来るという事じゃありません。ね。
昨日は、あー、美登里会でしたが、もう、それこそ、一人一人が、素晴らしい、えー、体験を発表されましたが、ね。その過程においてです。そら、難しいところを通っておられて、その難しい事が、難しい事であればあるほど、神様を感じることが出来る。実感していくことが出来る。もう、本当にもう、生き生きとして信心の稽古をなさっておられる様子を、もう合楽ならではと思うような表現で、皆さん発表されました。ね。だから、簡単です、明瞭ですという事はですね、おかげを受ける事は簡単ですけれども、信心を頂くという事は、いよいよ、明瞭になっていかねばならんのです、ね。その、明瞭にして行くことのために、信心の稽古がいるのです。ね。話を聞くばかりが能ではない。わが心からも錬り出せと、ね。わが心からも練り出させて貰う。ね。また、そのためにはです、皆さんが、今、こうして、控えておられますようにです。私は、日々、あの塗板に掲示される、その日の御理解を研修した人達が、あー、まとめております。あれが、毎日、毎日、消されていくのが、惜しゅうてたまらん感じがするんです。素晴らしいです。ね。中には皆さん、やっぱり、それをまぁ、書き写しておいでられる方もありますけれども、書き写すだけではない。その芯になるところを、日々、稽古をして行くという事が、いよいよ、合楽の信心を、明瞭にして行くことなんです。ね。簡単です。おかげは簡単でしょうが。電話でお願いしておかげ、ね。それこそ、あの、目が見えるごつなったとか、ね。十四年ぶりに懐妊のおかげを頂いたと言うのですから。ね。けれどもね、明瞭にしてゆくという事が、いうならば、大切なんです。ね。もう、恵介君の、今の手紙の中にも、その稽古の、まぁ、その教会、教会によって、やっぱ、色々ありますが、んー、八時半に朝の御祈念がある。だからもう、七時ごろ起きれば良いという。けれども、やっぱ、そこには、そこの信心があるわけです、ね。やはり、ところ変われば、品変わるで、それはそれで良いのです。ね。そして、そこの信心の、いうならば、真髄ともなるようなところを把握して、勉強してくると、ね。明瞭、金光大神の信心を、いよいよ、明瞭にして行く事のためには、ね。教学的にいうならば、つまびらかにする事と同時に、ね。おかげが確かですという、その確かなおかげを、それに伴わせていく事のために、合楽の信心、いうならば、によって、言うなら、えー、血が通うというようなね。あの、おかげを頂かねばならんと思います。ね。皆さんは、日々、その合楽の信心を、明瞭にすることのために通うておられる。その焦点は、どこにあるかというと、どのような場合であっても、顔色を変えんで済むだけの信心。教えの鏡を前に立ててみて、ね。悪い顔は人に見せるなとこう仰る。ね。心から、鏡を立てた途端に、はぁ、これは神愛だ。ここはもう、黙って治めるのが本当だという生き方を、いよいよ、身に付けていって、初めて、ね。なるほどという信心を、いうならば、明瞭にして行くことが出来るのです。初めて、傘一本で開ける道。金光様のご信心は、そういう、いうならば、これは、合楽で言う、ね。簡単です、という表現じゃないでしょうかね。ただ、明瞭ですという事のためには、人に悪い顔を見せんで済むほどしの内容というものがいるのじゃないでしょうかね。いうならば、御道の先生の、言うなら、卵から、もう、金光教のことは、ぞっこん知り抜いておられる、いうならば、教学においては、あー、最高権威と言われる、瀬戸先生のお手紙を聞いていただいて、その内容のところを、ね。明瞭にすることのための、いうなら、ね。いうなら、力を受け、御徳を受けていく事のための信心。この明瞭にするという事は、限りがないのです。いわゆる、信心の稽古を、いよいよ、それこそ、つまびらかにしていかなきゃいけないと思うですね。どうぞ。